メモ

社会文化学会

 

行ってきました、母校太田川新キャンパス。左右が隠れてしまいましたが、もっと横にながーーいのです。

事務所前のロビーです。

 

 

 

 

 

 

 

 

肝心のほうはまだ、始まる前の写真です。

内容の報告はいつになるかな??

社会文化学会 第19回全国大会 

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見出しのイベントの告知をFacebookで知り、断りもなく再掲載。

「社会文化学会」なるものは初めて聞くが、その言わんとするところを少し長くなるが引用させていただきます。

●メインシンポジウム●(10日14~17時半)
現代日本社会における承認問題

【企画趣旨】
「承認」の重要性は、現在では、その出発点であった社会哲学においてのみならず、広く一般にまで膾炙してきているように思われる。それもそのはずで、「承認」は人間の存在および価値に関わり、それなしには安心して生きられないものだからである。現代日本社会の問題を考える際にも、様々な場面で、「承認」の問題が関係していることがわかる。いまだに記憶に新しい、相模原の障害者施設での大量殺人事件において、その容疑者は「重度障害者には生きる価値はない」という趣旨の発言をしていたようであるが、ここには、重度障害者に対する人間の存在価値そのものの非承認が示されている。だからこそ、わたしたちはこの事件に深刻な残虐性を見て取るのである。

 承認論の代表的論者であるドイツの社会哲学者アクセル・ホネットは、承認を、愛情・法権利・社会的価値評価の三つに類型化し、この三つの承認で満たされていることが人間にとってふさわしいあり方であると捉え、承認が満たされない場合には、人間のアイデンティティに深刻な影響を及ぼすため、それを回復させようと「承認をめぐる闘争」が行われるとしている。しかし、このような議論もいざ日本の問題に適用しようとする場合、たとえば、法権利の承認を取ってみると、日本人の場合、そもそも権利意識が低かったり、他国におけるデモ活動と日本のそれを比べてみればわかるように、権利の侵害がなされているにもかかわらず大きな抵抗が生まれないことも多く、その一方では、「空気を読む」という言葉に象徴されるように、自分がどう考えたかよりも周りの評価を非常に気にしてそれに同調し、社会的価値評価を非常に気にする傾向を見て取ることができる。このように、わたしたちが承認の問題を考える際には、たんに原理原則のみならず、そこに日本の社会文化の特殊性を読み込んでいく必要があり、また、その特殊性こそが、社会生活のさまざまな場面で生きづらさを生み出している大きな要因になっているように思われる。

本シンポジウムでは、まずは総論として、ホネットの承認論とその理論的課題について紹介し、次に、具体的に、子ども・若者、社会人、老人という三つの世代に分けて、それぞれの場面で特有の承認の問題を検討する。最近、スマホに依存する子どもが増えてきていると言われるが、すぐに返信をしなければならない/してほしいと携帯の画面から目を離せないような状況はまさに承認に関わる問題であるし、争いごとを極度に避け、たとえ自分の意に反することがあっても、周りの空気に合わせようとする姿勢にも歪んだ承認関係が見られる。社会人生活においても「承認」は重要なテーマであり、若者の短期退職に見られるように、企業は承認欲求での動機付けなしにはマネジメントが成り立たなくなってきており、社員としても、謙譲を美徳とし「出る杭は打たれる」日本社会において認めてもらうためには、単に実力を発揮すれば良いというのはなく、特別な工夫が必要となっている。また、仕事は「承認」の大きな源泉となるが、リタイア後、老年を迎えてからいかに承認関係を築けるかということは、超高齢化社会に入り、孤独死の増加なども問題とされる中、非常に重要な課題である。これらの報告をもとに、理論と実践の場面の双方から、現代日本社会における「承認」の問題を多面的に捉え、承認論の理論的前進を目指すとともに、人間と社会のあるべき姿についてみなさんと一緒に考えていきたい。(赤石憲昭)

「実行委員長 片山善博、副実行委員長 赤石憲昭」というメンバーで、片山先生はお会いしたこともなくヘーゲルの本を数冊持っているぐらいで赤石先生に至ってはお名前も初めて拝見します((+_+))

しかし、上の引用からも言わんとすることはひしひしと伝わってくる。

「承認」というと「しぶしぶ」とか、「いやいや」とか「仕方なく」なんていうイメージを持っている。自分もそんな典型的な日本人の一人だと日常を振り返ると思いつまされることも多い。

そんな反省だかいじけだかはさておき、、、

一番自分に身近なのは「リタイア後、老年を迎えてからいかに承認関係を築けるかということ」、古くて新しい問題かもしれない。しかしリタイヤとは何だろうか?と思う。

今と違う自分に誰もが強制的に変えられるとしたら、それについて準備もしておきたいし、今まで必死に生きてきて(働いてきて)最後がつまらない人生なんて絶対おかしいだろうし絶対嫌だ。誰でもそうだろう。

老後にいかに上手く資産運用するかなんて話は、つまらない。

自分の老いの準備は、自分のためだけでなく自分の周りの人間の為でもあるしそうやって自分の子どもたちも親から学んでいくだろう。

話はどんどんそれていくが、

自分は若い時にかなり準備を怠った(と思う)。わがままで自分勝手で破滅的を良しとして個性と勘違いしていた。遅く結婚し、普通の家庭を持った。子どもができ、ようやく鏡に映る自分を直視できた。迫ってくる義務感・強制は避けるべきものでも批判するものでもなく、踏みとどまって自分自身を実現すべきためのものだった。

もう日付が変わる、

「~からの自由」という消極的な「逃げ」の自由でなく、「~への自由」という自己実現のために踏みとどまって自分を保て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今これにはまっています。

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手前はkakunoという1,000円万年筆。これは中のインクを交換できるのでバックに写っているインク瓶を買ってノートに書いて遊んでいますw

卓球 福原愛さんの言葉を聞いて思った事

昨夜は遅くまでオリンピックの卓球女子3位決定戦を見ていた。

勝って涙の福原愛さんにもらい泣きだった。

試合後のコメント

本当によかったです。足を引っ張ってばかりで。みんなに感謝しています。銅メダルをお見せすることができたので、ホッとしています。一昨日(卓球女子団体 の準決勝)も負けてしまって、何度も何度も思い出しては後悔してという昨日と今日だった。絶対に死ぬ気で勝ちにいきました。いい試合もあったけれど、苦し い試合もそれと同じぐらいあったので、本当に苦しいオリンピックでした

「、、、いい試合もあったけれど、苦し い試合もそれと同じぐらいあったので、本当に苦しいオリンピックだった」

この言葉は聞いていてつらいものを感じた。きびしい体験をしてきた人の言葉だった。

翌日、今日の夜NHKで7時のニュース後に毎日やっているダイジェスト番組のゲストで出演していた元バトミントン選手の潮田玲子さんのコメントが良かった。

「何か自分も頑張ろう、新しいことを挑戦しようという気になってくる、、、」というような感想を言っていたが、昨日の愛ちゃんのコメントの意味が、これなんだなと聞いていて思った。

人が苦しんで何かを成し遂げたことは、人の背中を押してくれる。元気どころか「勇気」が湧いてくる。

はじめ愛ちゃんの「本当に苦しいオリンピックでした」という言葉が聞いていて辛くもあった。けれど潮田さんの言われるようにそれは見ている人間を励ます力になる。だからこそ自分も頑張ろうと自分自身を励ますんだ。相手の辛さに共感できると自分の中で疑似体験のようなものになり、その「辛さ」自体に自分はどう向き合うか無意識に自分に問いかけるのかも知れない。

少なくとも自分は問いかけていなかったが、福原愛さんの言葉と潮田さんのコメントを聞いてそんなことを思った

相模原事件を考える 竹内章郞

しんぶん赤旗に掲載された記事。
ぼくはこの文章に大賛成だ。日頃障害者に関わる仕事をしている自分にはぴったりなじむ。

竹内先生は哲学者でヘーゲルやマルクスのちゃんとした事をやっている先生だが、娘さんに障害があり「弱者」についてとことんテーマにして考えてみえる。そこにこだわりすぎているという人もいるぐらいだが、この様な悲惨な事件の後にはやはり哲学者の出番だ。

文章を写してのせたいが時間も無いので画像で。

写真の2枚目、後半の部分が白眉だ。優生思想云々では無く障害者を「哲学」している。
哲学本来の姿を久しぶりに見た、哲学バンザイ!そして人間バンザイ。

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全文はこのブログに。

ドラマ「沈まぬ太陽」第13話

wowowのドラマ「沈まぬ太陽」13話を見た。
長年経営者に疎まれ差別的扱いを受けてきた主人公”恩地”が新会長から会長室付け人事の打診を受けポロポロと涙が落ちながら発した言葉「私ははじめて人間の言葉を聞いたような気がします」。
これを寝っ転がってみていた自分も我がことのように泣いてしまった。
予告で恩地が泣くシーンは見ていて知っていたが、この言葉を言ったのには感動した。原作を読んではいないが、原作通りだとしたら山崎豊子は王道を行く作家だったのかなと思う。

あれだけいじめられてもすねること無く自らの仕事に人間として誠実に向き合い耐えているその主人公にあの言葉を言わせるなんて、、、
聞いていて我が身のことのように感じて泣いてしまった。以前の回で永島敏行が上司役で「必ず光が当たるときが来る、耐えるんだ」と熱く語った、その時の胸にこみ上げるもの以上のものがあふれて泣いてしまった。

きっと自分の事を振り返ったんだろう。そして少し疲れていた自分にイヤでもまた仕事に立ち向かう元気が沸いてきた。本当に「イヤでも」という感じだった。

もう死んでしまった人に縛られないで、自由にやる。

「花は咲けども」

今日ふと去年の録画番組を見ていたらNNNドキュメントという番組でこの歌を久しぶりに聞いた。

番組。時間のない方は下の「花は咲けども」フルバージョンだけでも聞いて下さい。

 

そして、この歌のフルバージョン♪