講師の先生より小冊子が配られました。

「黄昏に時の雫の映えるがままに ー岸本さん断想ー」という日本福祉大学の発行されている「現代と文化」という研究紀要からの抜粋でした。

岸本晴雄さんという福祉大学で哲学を教えられていた先生です。主にⅡ部生の哲学の講義がぼくの時にはメインでしたのであまりお話を聞く機会はなかったのですが。

亡くなられたというのも(昨年ですが)知りませんでしたし、いわゆる「いりなか」時代も経験している自分にとっては懐かしい思い出と共に思い出されるお名前ではあります。

この文章の前半は福田氏の学生時代の思い出が中心になっていますが、福祉大の哲学の3先生、嶋田豊先生と福田先生、岸本先生の3人の関係や役割分担的な事にも触れられていることも、名古屋における哲学研究運動とでも言う研究活動の一端が垣間見られてとても興味深い部分もありました。

先日亡くなられた、宮田先生、また土方先生、もちろん嶋田先生、竹村英輔先生などのお名前を出され、岸本先生が亡くなられて「何か身の回りが決定的に淋しくなった気がする」と書いておられるのを読むと、先日「ヘーゲルを読む会」当てにメールで「いちゃもん」をつけた自分が恥ずかしい。

福田先生は文章の中で改めて「精神現象学」にも絡めていろいろと書いておられる。

浅学ながら強引に引用をさせていただくと

「・・・新自由主義的な自己責任論の主観主義的な狭い穴蔵から抜け出し、万人が万人にとっての狼であるような新リヴァイアサン的な『市場原理主義』の荒野へ世界史的な『主体』として立ち返り、自然と歴史の主人公として連帯する人間という『大きな物語』をいやおうなく紡ぎ出さざるを得ないのではなかろうか?」

「だから、かつて嶋田さんを含めてよく議論したように、気楽な『リベルタン』ではなくて、カッコウ好さそうで実はシンドイ批判的な『有機的知識人』こそ、やっぱりこれからも我々のゴーイング・マイ・ウェイというものではなかろうか?」

いささか引用が長すぎたが上記引用に、「精神現象学」に示される『意識の経験の学』と言われる、個人の認識の発展、を学ぶ現代的な意味。また、単に自分だけの意識の発展に重点を置きすぎない、これは自戒を込めてだが、飛躍を恐れずに言えば生きにくい個々の人間がバラバラにされた自分たちの毎日。

もちろんそこでみんな必死に生きているんだと言うことを否定するつもりはなくこれを書いている自分が孤独に毎日苛まれているし、自分ばかりを責めている。

そんな現状にもう疲れてしまっているからなのだけど・・

あらためて、『学ぶことと生きること』をもうすぐ50才になろうとしている初老が見え始めたひとりの人間として、ゆっくりと考えたい。

あなたはどう思われますか?