あまり意味のない写真です (^_^;)

先日日曜日はへーゲルな例会でした、もう『自己意識』です。自己意識も他の自己意識があって自己意識になる。

自己意識は真理のふるさと。

類。  ←ここらでようやくマルクスとの接点が (^_^)v

主と奴 (主と僕、主人と奴隷)、このお話しはやはり面白かったですね。

関係しそうな訳文をそのまま書き写すと・・・

ところが主は、物と自分の間に僕を押し込み、そのことによってもっぱら物の非自立性とだけ結びつき、物をひたすら享楽する。が、物の自立性の面は、物に働きかけ加工する僕にまかせてしまう。

これら2つの契機に於いて、主は他方の意識によって承認された有となる。なぜなら、この他方の意識は、・・・・そのため初めの意識が自分に対して行う事を、自分で行うという意味で、承認という契機が現存していることになる。

なんだか骨も身もない引用だが、主人は奴隷なしでは主人ではあり得ないし、奴隷が労働をするから「享楽」できる。ここで主人と奴隷の関係が逆転していくという事だそうだ。

主人と奴隷というのがどういう事を指すのか、資本家と労働者、あるいは家庭における夫と妻、支配するものとされるものとの関係に置き換えてみると、、、

身近で家庭などは、家事労働の問題とか、DVやら家庭内の暴力や女性差別云々といくらでも出てくる問題だ。

つよいものはよわいものを力や権威や恐怖にて支配する、奴隷が主人を「承認」するとへーゲルは言っている。ただ、一面的で不平等な承認が生じた、と言う。

「自立的意識の真理は僕としての意識である」。う~ん、書いていて思うがやはりへーゲルは積み上げていかないと理解が出来ない。時間の流れ(歴史)が基本にあるから後から振り返ると、ああそうだったんだ、と分かるんだが。

自己意識についてへーゲルの規定は本当にむずかしく、先生もそう言ってみえた。すこしはしょりすぎ、簡潔にまとめようとし過ぎているとのこと。しかし、自分という意識は、例えば話している自分と、その話している自分を見ている自分という2つの自分があるのだそうだ。哲学者は本当にむずかしく考えるとおもう。こういうことを聞くとつい自分は、一人の人間がパラノイアしているのかと思ってしまうが、一人の人間の二つの側面だそうだ。

本音と建て前。裏と表。確かにそう言うから二面性というのはあるよな、、、(^_^;)

自分の思いも、人類みんなのつまり「我々」の思い。私が辛い思いをしている「辛い」というのも個人的な感情だが人間誰でも持つ感情だ、妙に達観してしまったが。

類的な存在とか。ここに来るまでに自我の問題とかあったな、自我を実体化する問題などすっ飛ばしたな・・・

言いたい事がまとまる前に書き始めると意味がない、ナンセンスなだけだ、まとめる努力をしよ (+_+)