母校に関連することが話題になっているので少し。

以前数年前にまだ加藤先生が副学長であった頃同窓会の講演でお話を聞いた事がある。

その時は事件のことも知らず、しかし加藤先生のお話は非常に人間味のある話しであった。人間味とは暖かさや優しさではなくもっと深い人間に対する洞察に裏付けられた物で有り話しを聞いて帰って家族に事件のことを話すと、事件のことは知っていて嫌な顔をされた(凶悪事件というイメージ)が犯人についてはほとんど知らない。

これが自分を含めて「世間」一般の見方であるが、こちらの文章を読んで改めて加藤先生にエールを送りたい。

せっかくだから無断だが少し引用したい、なぜならこの文章に共感し、こういう悪い裁判、悪い社会であることを自分で読み返して時々自分を目覚めさせたい。

本来は被害者自体に適切な金銭的、生活的、心理的なサポートが必要なわけですよね。
そこが十分に果たされるという条件の中で、今言われた加害者の人権とのバランスがとれるわ
けだけれども、それが非常におろそかな状況の中では、不満や怒りの感情は加害者に向うしか
ないし、要するに自分の中にある、言い方は悪いかもしれないけれど邪悪な感情というか、もう
許せない感情が逆の凶悪さを生み出すような形で、まさに復讐の論理がそこで復活している印
象を受けます。だから近代法以前のところへ感情のレベルだけでは戻っている印象を受けます。
それから先ほど言われたマスコミ、裁判所の問題について私がかねがね思っているのは、マス
コミ報道で言えば、センセーションというのは被害者寄りの報道なんですね。それが何日も続い
て、それこそ三面記事と言われた小さな新聞紙面のときだったら、ベタ記事で出るようなものが
連日のごとく両開きで、しかも週刊誌を含めると長期間にわたって繰り返し繰り返し、そのセンセ
ーションの部分だけがやられるわけでしょう。真相解明で言われる、ほんとに事実をきちっと確定
していくプロセスというのは、小さく、少しシリーズでとらえて良心的に出すことはあるけれども、き
わめて限られたもので、その頃にはもうほとんど関心がないところで終わっていく。大きな事件で
も、あれは何だったかなというところで、判決だけ。それがマスコミの実情ですよね。
それから裁判所について言えば、量刑についてはすごく関心が高いけれども、真相解明につい
てセンスのいい裁判官がどうして育っていないんだろうと思います。もともと裁判は真相解明が命
のはずですよね。何でこういうことが起こったかということをきちっと世に知らしめることに裁判体の
仕事があるはずなのに、なんで裁判官が凶悪だっていう合唱団の指揮者になるのか。そういう仕
事だったのかなぁと錯覚を起こしちゃうような、その恐ろしさですよね。よくあれだけ言葉を並べて
凶悪だということの作文ができるなぁというぐらいの恐ろしさです。凶悪な人格があるとしたら、その
文章を書くほうが凶悪じゃないかと思うぐらいの気持ちになっちゃいましてね(笑)。ちょっと言い過
ぎているかもしれないけれども。もう少し精査して、人間というのは行きつ戻りつして、自分だって
ここに置かれたらどうなるんだっていう共感性だとか、その場をきちっと見なきゃ人権感覚なんて
生まれないですよ。それのないところで、判決だけは、量刑に照らし合わせて、被害者が3人か4
人かなんていう相場じゃないですよ。ほんとにその人たちがどうやって生きてきたのか、その軌
跡、どういう不条理の中でそこに至ってしまったのかをきちっと掲示して、それでもなお殺しますか
っていうことですよ。ほんとにそれでいいですかっていう問いを発する役割を、なぜ裁判体は放棄
するんですかね。そこが不思議でならないですね。せっかく長い時間をかけて、そりゃ完璧ではな
いかもしれないけれども、ほんとにていねいにていねいに主観性を含めたもう一つのストーリーを
掲示しているという点について、わずか2,3行の情状で終わらせてほしくないなって思います。
アベック殺人のことでいえば、やっぱり共謀の場所だって変化したわけですよ。そういう丁寧さを
見ていただいて、世に中身を問うてほしいですね。
それから判決文はやっぱり教訓的であってほしいと思いますね。裁判書きをきちっと読みたいと
言わしめるものを出していただく役割を果たせる人たちが裁判官になってるんじゃないですか、と
言うと皮肉に聞こえますけれども。そんな感じがいたしますね。

下線や文字に色をつけたところは自分が大事だと思ったところです。