年の瀬に、、ドイツイデオロギーの覚書き。

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ここのところ、ヘーゲルはほとんど読まずに見出しの文献に対する経過を調べていた。

発端は、不破哲三の「古典への招待」の上巻。

ドイツイデオロギーにはアドラツキー版という現在「常識?」になっているものの前に、リャザノフ版というものがあった。前者は原稿を順番を入れ替えたりして再編集した。後者は後にソ連で失脚したが、、残っている原稿に忠実に編集、と言うことらしい。

廣松版もアドラツキー版だったというのが解り学会では騒然となった、とのこと。

どうも、発端はマルクス自身が出版社が発行できない事情があって、それを知って「ネズミが食べて批評するにまかせた」みたいなことを言っている、らしい。マルクス←オイ!

新日本出版社の服部文男監訳の「ドイツ・イデオロギー」に詳細な経過と解説が出ていて、昨日それを読んで始めて色々解った。初期「疎外」論と「物象化」論との関係とかも。

服部さんは初期マルクスと「資本論」マルクスの問題意識は分裂していない。経済学批判の「序言」の中に『これまでの哲学的意識の精算・・・』云々みたいな言葉があって、それが論争にも一役買っているのだが。

と、とにかく「こんなこともしらなんだの」的な内容だが、勉強になった。

始まりは、ヘーゲル哲学の「合理的核心」というマルクスの言葉を考えていたのが始まりだったのだが。おかげで、ドイツイデオロギー、哲学の貧困、聖家族、やらまで、マルクスが哲学的著作から経済的分析へたどっていく道のりを表面的に(形式的に)たどっただけだった。やはり書物は原書に『自分で』あたって読んで見なければいけないことをここに告白しておきたい。

もう年が明ける。

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