共謀罪強行採決・この間の与党の強引さと、野党の弱さについて思うこと

 あるテレビで「哲学者」という人が、人間は自らの道徳的判断で行動すると思いたいが、残念ながら、どうも実際はそう行動することが自らに得であると思うからその行動を選択するというのが残念ながら現実だと語っていた。マルクスが経済学を勉強したのもそういう問題意識があったのだと思う。その哲学者はマルクス的な立場のひとではなかったけれど。

だからぼくが思うのは、やはり個人の「道徳律」での行動への期待、これは観念的でしかないのではないか、この間の不条理に対する怒りから個々の「道徳律」に訴えたくなる気持ちは同感で、痛いほど共感するけれど。

しかし、別の面から言うと「共謀罪」を成立させ、「忖度」することが自身の利益になるからそう行動する人間ばかりになるんだと思う。

自分が言いたいのは、個々の個人の内面に訴えることと同時に、不条理・不正を行う事が「得」だという「システム」これにメスを入れることも忘れてはいけないと思う。

メスを入れるという事は、本当にそれが「得」なのか?長い意味で考えたらどういう結果になるのか、現にこの「格差社会」を作り上げてしまったのはそういう「得」するという目先の利益に我も我もと走った結果だ。

そしてこれ(目先の利益しかみえない万人の万人に対する弱肉強食状態)を乗り越えるには、ある種のコミュニティの形成による再教育が必要だろうと思う。

そしてこれをやっているのは一部のNPOかな?(大いに疑問)。

この点はもっと政党、共産党、社民党にもできることはないのかと思う。人間同士の助け合いの組織、現代的なセツルメント?(政治行動だけでない市民運動・学生運動)や協同組合はないのか?と。

人間の同士の連帯・助け合い(これは政府や官僚が言う、共助とか上からのものでなく)の貧しい人たち自身の助け合う事による「人間の本来性の回復実感」できるもの。

それが広がらないと上記「損得システム体系」を現実的な実感として乗り越えていく人間(主体)が形成されないのではないだろうか?

謹賀新年

新年おめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
昨夜は焼酎を飲んでCDを聞いてすぐ寝てしまいました。
年賀状代わりに、大好きな茨木のり子さんの詩を。

「もっと強く」

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは明石の鯛がたべたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは幾種類のジャムが
いつも食卓にあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは朝日の射すあかるい台所が
欲しいと

すりきれた靴はあっさりとすて
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばしば味わいたいと

秋 旅に出た人があれば
ウインクで送ってやればいいのだ

なぜだろう
委縮することが生活なのだと
おもいこんでしまった村と町
家々のひさしは上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫背をのばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに土用の鰻と会わなかったと

おーい 小さな釣具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ伊勢の海もみていないと

女がほしければ奪うのもいいのだ
男がほしければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならない限り
なにごとも始まりはしないのだ

詩集「対話」より

(貪婪=どんらん。ひどく欲が深いこと、また、そのさま。貪欲。)

社会文化学会

 

行ってきました、母校太田川新キャンパス。左右が隠れてしまいましたが、もっと横にながーーいのです。

事務所前のロビーです。

 

 

 

 

 

 

 

 

肝心のほうはまだ、始まる前の写真です。

内容の報告はいつになるかな??

社会文化学会 第19回全国大会 

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見出しのイベントの告知をFacebookで知り、断りもなく再掲載。

「社会文化学会」なるものは初めて聞くが、その言わんとするところを少し長くなるが引用させていただきます。

●メインシンポジウム●(10日14~17時半)
現代日本社会における承認問題

【企画趣旨】
「承認」の重要性は、現在では、その出発点であった社会哲学においてのみならず、広く一般にまで膾炙してきているように思われる。それもそのはずで、「承認」は人間の存在および価値に関わり、それなしには安心して生きられないものだからである。現代日本社会の問題を考える際にも、様々な場面で、「承認」の問題が関係していることがわかる。いまだに記憶に新しい、相模原の障害者施設での大量殺人事件において、その容疑者は「重度障害者には生きる価値はない」という趣旨の発言をしていたようであるが、ここには、重度障害者に対する人間の存在価値そのものの非承認が示されている。だからこそ、わたしたちはこの事件に深刻な残虐性を見て取るのである。

 承認論の代表的論者であるドイツの社会哲学者アクセル・ホネットは、承認を、愛情・法権利・社会的価値評価の三つに類型化し、この三つの承認で満たされていることが人間にとってふさわしいあり方であると捉え、承認が満たされない場合には、人間のアイデンティティに深刻な影響を及ぼすため、それを回復させようと「承認をめぐる闘争」が行われるとしている。しかし、このような議論もいざ日本の問題に適用しようとする場合、たとえば、法権利の承認を取ってみると、日本人の場合、そもそも権利意識が低かったり、他国におけるデモ活動と日本のそれを比べてみればわかるように、権利の侵害がなされているにもかかわらず大きな抵抗が生まれないことも多く、その一方では、「空気を読む」という言葉に象徴されるように、自分がどう考えたかよりも周りの評価を非常に気にしてそれに同調し、社会的価値評価を非常に気にする傾向を見て取ることができる。このように、わたしたちが承認の問題を考える際には、たんに原理原則のみならず、そこに日本の社会文化の特殊性を読み込んでいく必要があり、また、その特殊性こそが、社会生活のさまざまな場面で生きづらさを生み出している大きな要因になっているように思われる。

本シンポジウムでは、まずは総論として、ホネットの承認論とその理論的課題について紹介し、次に、具体的に、子ども・若者、社会人、老人という三つの世代に分けて、それぞれの場面で特有の承認の問題を検討する。最近、スマホに依存する子どもが増えてきていると言われるが、すぐに返信をしなければならない/してほしいと携帯の画面から目を離せないような状況はまさに承認に関わる問題であるし、争いごとを極度に避け、たとえ自分の意に反することがあっても、周りの空気に合わせようとする姿勢にも歪んだ承認関係が見られる。社会人生活においても「承認」は重要なテーマであり、若者の短期退職に見られるように、企業は承認欲求での動機付けなしにはマネジメントが成り立たなくなってきており、社員としても、謙譲を美徳とし「出る杭は打たれる」日本社会において認めてもらうためには、単に実力を発揮すれば良いというのはなく、特別な工夫が必要となっている。また、仕事は「承認」の大きな源泉となるが、リタイア後、老年を迎えてからいかに承認関係を築けるかということは、超高齢化社会に入り、孤独死の増加なども問題とされる中、非常に重要な課題である。これらの報告をもとに、理論と実践の場面の双方から、現代日本社会における「承認」の問題を多面的に捉え、承認論の理論的前進を目指すとともに、人間と社会のあるべき姿についてみなさんと一緒に考えていきたい。(赤石憲昭)

「実行委員長 片山善博、副実行委員長 赤石憲昭」というメンバーで、片山先生はお会いしたこともなくヘーゲルの本を数冊持っているぐらいで赤石先生に至ってはお名前も初めて拝見します((+_+))

しかし、上の引用からも言わんとすることはひしひしと伝わってくる。

「承認」というと「しぶしぶ」とか、「いやいや」とか「仕方なく」なんていうイメージを持っている。自分もそんな典型的な日本人の一人だと日常を振り返ると思いつまされることも多い。

そんな反省だかいじけだかはさておき、、、

一番自分に身近なのは「リタイア後、老年を迎えてからいかに承認関係を築けるかということ」、古くて新しい問題かもしれない。しかしリタイヤとは何だろうか?と思う。

今と違う自分に誰もが強制的に変えられるとしたら、それについて準備もしておきたいし、今まで必死に生きてきて(働いてきて)最後がつまらない人生なんて絶対おかしいだろうし絶対嫌だ。誰でもそうだろう。

老後にいかに上手く資産運用するかなんて話は、つまらない。

自分の老いの準備は、自分のためだけでなく自分の周りの人間の為でもあるしそうやって自分の子どもたちも親から学んでいくだろう。

話はどんどんそれていくが、

自分は若い時にかなり準備を怠った(と思う)。わがままで自分勝手で破滅的を良しとして個性と勘違いしていた。遅く結婚し、普通の家庭を持った。子どもができ、ようやく鏡に映る自分を直視できた。迫ってくる義務感・強制は避けるべきものでも批判するものでもなく、踏みとどまって自分自身を実現すべきためのものだった。

もう日付が変わる、

「~からの自由」という消極的な「逃げ」の自由でなく、「~への自由」という自己実現のために踏みとどまって自分を保て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘーゲル伝 ジャック・ドント

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欲しかったジャック・ドントの「ヘーゲル伝」を中古で購入。

これは大学図書館の除籍本で印鑑を見ると某北海道大学農学部のインクがある・・

 

ジャック・ドントはずばりヘーゲルを絶対王政を正当化した人という定説にとらわれず、資料や自分の足で調査した記録に基づいて彼の生涯を描いている。

現在ではヘーゲルを絶対王政を正当化した人として見る人は少ない、当時の検閲をかいくぐりいかに自分の主張を曲げずに(?)書いたかについての検証。

もうひとつ面白いのは彼の生涯と「精神現象学」の記述が対応させて描かれていることでその初期の感性的認識から認識の発展と「精神現象」の発展を伏線として描いているのがとても面白い。

ただ、日本語の記述が読みのもとしては少し硬く、学術的な面もあり少しそこは慣れが必要かも。

今これにはまっています。

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手前はkakunoという1,000円万年筆。これは中のインクを交換できるのでバックに写っているインク瓶を買ってノートに書いて遊んでいますw

ノートの楽しみ

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これが実際ノートに書いてみたインクの色です。
左は「名古屋資本論講座」のノート。真ん中は2チャンネルの「読書ノート」スレの抜き書き。右は「資本論草稿集①」経済学批判要綱(グルントリッセ)への序説、3経済学の方法、より抜粋。

マルクスの資本論における弁証法の論理的一貫性と、歴史発生史的な裏付けがピンとこなくて、、、講師の宮川彰先生に「論理的一貫性を貫くと歴史発生的になるものなんですか?」と聞いたら

「ヘーゲルの様に『概念の自己展開』が歴史を進めていくのでは無く、論理的な一貫性は常に現実に立ち返って進めていくものだと、『序説』の経済学の方法にかいてあるはずだから読め」、と言われたんですが。

そんなことよりノートに板書する色の楽しさにひかれているところです。

真ん中の2チャンネル「読書ノート」スレは中々良くて思わず板書したくなりました。

卓球 福原愛さんの言葉を聞いて思った事

昨夜は遅くまでオリンピックの卓球女子3位決定戦を見ていた。

勝って涙の福原愛さんにもらい泣きだった。

試合後のコメント

本当によかったです。足を引っ張ってばかりで。みんなに感謝しています。銅メダルをお見せすることができたので、ホッとしています。一昨日(卓球女子団体 の準決勝)も負けてしまって、何度も何度も思い出しては後悔してという昨日と今日だった。絶対に死ぬ気で勝ちにいきました。いい試合もあったけれど、苦し い試合もそれと同じぐらいあったので、本当に苦しいオリンピックでした

「、、、いい試合もあったけれど、苦し い試合もそれと同じぐらいあったので、本当に苦しいオリンピックだった」

この言葉は聞いていてつらいものを感じた。きびしい体験をしてきた人の言葉だった。

翌日、今日の夜NHKで7時のニュース後に毎日やっているダイジェスト番組のゲストで出演していた元バトミントン選手の潮田玲子さんのコメントが良かった。

「何か自分も頑張ろう、新しいことを挑戦しようという気になってくる、、、」というような感想を言っていたが、昨日の愛ちゃんのコメントの意味が、これなんだなと聞いていて思った。

人が苦しんで何かを成し遂げたことは、人の背中を押してくれる。元気どころか「勇気」が湧いてくる。

はじめ愛ちゃんの「本当に苦しいオリンピックでした」という言葉が聞いていて辛くもあった。けれど潮田さんの言われるようにそれは見ている人間を励ます力になる。だからこそ自分も頑張ろうと自分自身を励ますんだ。相手の辛さに共感できると自分の中で疑似体験のようなものになり、その「辛さ」自体に自分はどう向き合うか無意識に自分に問いかけるのかも知れない。

少なくとも自分は問いかけていなかったが、福原愛さんの言葉と潮田さんのコメントを聞いてそんなことを思った

相模原事件を考える 竹内章郞

しんぶん赤旗に掲載された記事。
ぼくはこの文章に大賛成だ。日頃障害者に関わる仕事をしている自分にはぴったりなじむ。

竹内先生は哲学者でヘーゲルやマルクスのちゃんとした事をやっている先生だが、娘さんに障害があり「弱者」についてとことんテーマにして考えてみえる。そこにこだわりすぎているという人もいるぐらいだが、この様な悲惨な事件の後にはやはり哲学者の出番だ。

文章を写してのせたいが時間も無いので画像で。

写真の2枚目、後半の部分が白眉だ。優生思想云々では無く障害者を「哲学」している。
哲学本来の姿を久しぶりに見た、哲学バンザイ!そして人間バンザイ。

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全文はこのブログに。

ドラマ「沈まぬ太陽」第13話

wowowのドラマ「沈まぬ太陽」13話を見た。
長年経営者に疎まれ差別的扱いを受けてきた主人公”恩地”が新会長から会長室付け人事の打診を受けポロポロと涙が落ちながら発した言葉「私ははじめて人間の言葉を聞いたような気がします」。
これを寝っ転がってみていた自分も我がことのように泣いてしまった。
予告で恩地が泣くシーンは見ていて知っていたが、この言葉を言ったのには感動した。原作を読んではいないが、原作通りだとしたら山崎豊子は王道を行く作家だったのかなと思う。

あれだけいじめられてもすねること無く自らの仕事に人間として誠実に向き合い耐えているその主人公にあの言葉を言わせるなんて、、、
聞いていて我が身のことのように感じて泣いてしまった。以前の回で永島敏行が上司役で「必ず光が当たるときが来る、耐えるんだ」と熱く語った、その時の胸にこみ上げるもの以上のものがあふれて泣いてしまった。

きっと自分の事を振り返ったんだろう。そして少し疲れていた自分にイヤでもまた仕事に立ち向かう元気が沸いてきた。本当に「イヤでも」という感じだった。

もう死んでしまった人に縛られないで、自由にやる。