近況

最近買った本(詩集)、井坂洋子「七月のひと房」

以前茨木のり子さんの没後10周年に、西尾市の「岩瀬文庫」に以前行った。

http://murata-iwakura.com/?p=1754

それ以来思い出しては、吉野弘さんなどを時々読んでいたりしていたが、茨木のり子さんの追悼特集の雑誌で、井坂洋子さんと小池昌代さんが茨木さんの好きな詩を上げられているのを見てから、井坂洋子さんも気になっていて「朝礼」などの詩を読んで中々新鮮な驚きを受けていた。

その井坂さんが資生堂の主催する「現代詩花椿賞」を受賞した。

この詩集は、Amazanや書店では買えず、ISBNコードもついていず、「栗売社」という佐々木安美さんのTwitterアカウントでのみ購入できる。そこも気に入った点なのだけれど。

井坂さんの年令にマッチしてきている詩が、少し暗めなのとしかし自然なのでしっくり自然にじわじわくると感じる。

謹賀新年

2018年も明けました。

かれこれ10年ほど続けているブログも、はじめた当時は独自ドメインや、Wordpressが普及はじめた頃で楽しかったものですが、さていつまで続ける事になるでしょうか。

さて、年頭は昨年末から興味が有り読み始めている本を2つupします。

1つ

これは「放送大学」の『哲学への誘い』というラジオの講義のテキストです。

テキストの構成は

第1部 古代ギリシャの知恵

ギリシャのヘロドトスやギリシャ悲劇、について

第2部 近代国家の現実と哲学

ヘーゲル「法の哲学」の解説

 

第3部 文芸と哲学

ドストエフスキーの文学と哲学、日本近代文学と哲学(森鴎外、小林秀雄)

という内容です。

第4部 絵画と哲学

内容は、

第1部は又後で読むとして、、第2部はヘーゲル『法の哲学』の比較的易しい解説になっています。

「天下、国家」に関わる重大問題だけでなく、私たちを取り囲むごく卑近な問題に及ぶものであることを明らかにしておこう。例えば、家族という誰にとっても身近な対象も取り上げられるが、その際に、男女が結びついて共同生活をするのになぜ結婚式が必要なのかとか、なぜ死者の葬式を家族が執り行うのか、遺産相続はどのように行ったら良いのか等々、また、司法が論じられる際には、犯罪に対する刑罰が懲役何年、罰金いくらというように数量化された形で下されるがそれはどういうことなのか。

そして第3部「文芸と哲学」でのドフトエフスキーの作品の解説が一番この本で面白かった

はじめは「貧しき人々」、そして「白痴」「地下生活者の手記」「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」と彼の内面、ロシアの後進性の告発からロシア正教への回帰・反動とに揺れていく生涯と対比されていて、神学と哲学ロシアの歴史との関わりなどとからめて解説されていて、よきドフトエフスキー入門になっている。

このドフトエフスキーの解説は概説として初心者には一読の価値があるだろう、と思いました。

 

現在「放送大学」の講義はBSテレビ放送とインターネットラジオで聴けるのですが、大学の方針で、近くBSに完全移行するようです。映像は従来のBS テレビ、ラジオは「BSラジオ」で聞くというもので、BSラジオは比較的簡単に聞けますが、インターネットラジオのようにラジオのソフトでタイマー録音がPCを使用してできないので、放送時にICレコーダーなりでマイクから録音するしか現状なく、これは後退と言えるでしょうか。

 

近況

今日はインフルエンザの予防接種をしてきた。

泊まり明けに行ったからか、接種後3時間ぐらいしてから少し寒気と喉の痛みが。

軽い副作用?

泊まり明けに行くからいけなかったかも、今年はワクチンの数が少ないのでなくなったら終わりです、なんて言われると焦ってしまった(^_^;

この様なニュースも。しかし自分生まれて初めてのインフル予防接種です。昨年、事業所がインフルで閉鎖になるという経験から今年は打たなければと思い。

今年はどうなるのでしょう、感染症にはいずれにしても気をつけたいです。

近況2 行ったところ

行ったところ編♪

岐阜県北方町立図書館、10月4日(水)に行ってきた。大学の同窓生が住んでいて教えてもらった、持つべきものは同窓生♪

共謀罪強行採決・この間の与党の強引さと、野党の弱さについて思うこと

 あるテレビで「哲学者」という人が、人間は自らの道徳的判断で行動すると思いたいが、残念ながら、どうも実際はそう行動することが自らに得であると思うからその行動を選択するというのが残念ながら現実だと語っていた。マルクスが経済学を勉強したのもそういう問題意識があったのだと思う。その哲学者はマルクス的な立場のひとではなかったけれど。

だからぼくが思うのは、やはり個人の「道徳律」での行動への期待、これは観念的でしかないのではないか、この間の不条理に対する怒りから個々の「道徳律」に訴えたくなる気持ちは同感で、痛いほど共感するけれど。

しかし、別の面から言うと「共謀罪」を成立させ、「忖度」することが自身の利益になるからそう行動する人間ばかりになるんだと思う。

自分が言いたいのは、個々の個人の内面に訴えることと同時に、不条理・不正を行う事が「得」だという「システム」これにメスを入れることも忘れてはいけないと思う。

メスを入れるという事は、本当にそれが「得」なのか?長い意味で考えたらどういう結果になるのか、現にこの「格差社会」を作り上げてしまったのはそういう「得」するという目先の利益に我も我もと走った結果だ。

そしてこれ(目先の利益しかみえない万人の万人に対する弱肉強食状態)を乗り越えるには、ある種のコミュニティの形成による再教育が必要だろうと思う。

そしてこれをやっているのは一部のNPOかな?(大いに疑問)。

この点はもっと政党、共産党、社民党にもできることはないのかと思う。人間同士の助け合いの組織、現代的なセツルメント?(政治行動だけでない市民運動・学生運動)や協同組合はないのか?と。

人間の同士の連帯・助け合い(これは政府や官僚が言う、共助とか上からのものでなく)の貧しい人たち自身の助け合う事による「人間の本来性の回復実感」できるもの。

それが広がらないと上記「損得システム体系」を現実的な実感として乗り越えていく人間(主体)が形成されないのではないだろうか?

謹賀新年

新年おめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
昨夜は焼酎を飲んでCDを聞いてすぐ寝てしまいました。
年賀状代わりに、大好きな茨木のり子さんの詩を。

「もっと強く」

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは明石の鯛がたべたいと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは幾種類のジャムが
いつも食卓にあるようにと

もっと強く願っていいのだ
わたしたちは朝日の射すあかるい台所が
欲しいと

すりきれた靴はあっさりとすて
キュッと鳴る新しい靴の感触を
もっとしばしば味わいたいと

秋 旅に出た人があれば
ウインクで送ってやればいいのだ

なぜだろう
委縮することが生活なのだと
おもいこんでしまった村と町
家々のひさしは上目づかいのまぶた

おーい 小さな時計屋さん
猫背をのばし あなたは叫んでいいのだ
今年もついに土用の鰻と会わなかったと

おーい 小さな釣具屋さん
あなたは叫んでいいのだ
俺はまだ伊勢の海もみていないと

女がほしければ奪うのもいいのだ
男がほしければ奪うのもいいのだ

ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならない限り
なにごとも始まりはしないのだ

詩集「対話」より

(貪婪=どんらん。ひどく欲が深いこと、また、そのさま。貪欲。)

社会文化学会 第19回全国大会 

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見出しのイベントの告知をFacebookで知り、断りもなく再掲載。

「社会文化学会」なるものは初めて聞くが、その言わんとするところを少し長くなるが引用させていただきます。

●メインシンポジウム●(10日14~17時半)
現代日本社会における承認問題

【企画趣旨】
「承認」の重要性は、現在では、その出発点であった社会哲学においてのみならず、広く一般にまで膾炙してきているように思われる。それもそのはずで、「承認」は人間の存在および価値に関わり、それなしには安心して生きられないものだからである。現代日本社会の問題を考える際にも、様々な場面で、「承認」の問題が関係していることがわかる。いまだに記憶に新しい、相模原の障害者施設での大量殺人事件において、その容疑者は「重度障害者には生きる価値はない」という趣旨の発言をしていたようであるが、ここには、重度障害者に対する人間の存在価値そのものの非承認が示されている。だからこそ、わたしたちはこの事件に深刻な残虐性を見て取るのである。

 承認論の代表的論者であるドイツの社会哲学者アクセル・ホネットは、承認を、愛情・法権利・社会的価値評価の三つに類型化し、この三つの承認で満たされていることが人間にとってふさわしいあり方であると捉え、承認が満たされない場合には、人間のアイデンティティに深刻な影響を及ぼすため、それを回復させようと「承認をめぐる闘争」が行われるとしている。しかし、このような議論もいざ日本の問題に適用しようとする場合、たとえば、法権利の承認を取ってみると、日本人の場合、そもそも権利意識が低かったり、他国におけるデモ活動と日本のそれを比べてみればわかるように、権利の侵害がなされているにもかかわらず大きな抵抗が生まれないことも多く、その一方では、「空気を読む」という言葉に象徴されるように、自分がどう考えたかよりも周りの評価を非常に気にしてそれに同調し、社会的価値評価を非常に気にする傾向を見て取ることができる。このように、わたしたちが承認の問題を考える際には、たんに原理原則のみならず、そこに日本の社会文化の特殊性を読み込んでいく必要があり、また、その特殊性こそが、社会生活のさまざまな場面で生きづらさを生み出している大きな要因になっているように思われる。

本シンポジウムでは、まずは総論として、ホネットの承認論とその理論的課題について紹介し、次に、具体的に、子ども・若者、社会人、老人という三つの世代に分けて、それぞれの場面で特有の承認の問題を検討する。最近、スマホに依存する子どもが増えてきていると言われるが、すぐに返信をしなければならない/してほしいと携帯の画面から目を離せないような状況はまさに承認に関わる問題であるし、争いごとを極度に避け、たとえ自分の意に反することがあっても、周りの空気に合わせようとする姿勢にも歪んだ承認関係が見られる。社会人生活においても「承認」は重要なテーマであり、若者の短期退職に見られるように、企業は承認欲求での動機付けなしにはマネジメントが成り立たなくなってきており、社員としても、謙譲を美徳とし「出る杭は打たれる」日本社会において認めてもらうためには、単に実力を発揮すれば良いというのはなく、特別な工夫が必要となっている。また、仕事は「承認」の大きな源泉となるが、リタイア後、老年を迎えてからいかに承認関係を築けるかということは、超高齢化社会に入り、孤独死の増加なども問題とされる中、非常に重要な課題である。これらの報告をもとに、理論と実践の場面の双方から、現代日本社会における「承認」の問題を多面的に捉え、承認論の理論的前進を目指すとともに、人間と社会のあるべき姿についてみなさんと一緒に考えていきたい。(赤石憲昭)

「実行委員長 片山善博、副実行委員長 赤石憲昭」というメンバーで、片山先生はお会いしたこともなくヘーゲルの本を数冊持っているぐらいで赤石先生に至ってはお名前も初めて拝見します((+_+))

しかし、上の引用からも言わんとすることはひしひしと伝わってくる。

「承認」というと「しぶしぶ」とか、「いやいや」とか「仕方なく」なんていうイメージを持っている。自分もそんな典型的な日本人の一人だと日常を振り返ると思いつまされることも多い。

そんな反省だかいじけだかはさておき、、、

一番自分に身近なのは「リタイア後、老年を迎えてからいかに承認関係を築けるかということ」、古くて新しい問題かもしれない。しかしリタイヤとは何だろうか?と思う。

今と違う自分に誰もが強制的に変えられるとしたら、それについて準備もしておきたいし、今まで必死に生きてきて(働いてきて)最後がつまらない人生なんて絶対おかしいだろうし絶対嫌だ。誰でもそうだろう。

老後にいかに上手く資産運用するかなんて話は、つまらない。

自分の老いの準備は、自分のためだけでなく自分の周りの人間の為でもあるしそうやって自分の子どもたちも親から学んでいくだろう。

話はどんどんそれていくが、

自分は若い時にかなり準備を怠った(と思う)。わがままで自分勝手で破滅的を良しとして個性と勘違いしていた。遅く結婚し、普通の家庭を持った。子どもができ、ようやく鏡に映る自分を直視できた。迫ってくる義務感・強制は避けるべきものでも批判するものでもなく、踏みとどまって自分自身を実現すべきためのものだった。

もう日付が変わる、

「~からの自由」という消極的な「逃げ」の自由でなく、「~への自由」という自己実現のために踏みとどまって自分を保て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ETV特集▽それはホロコーストのリハーサルだった~障害者虐殺70年目の真実 を見た。

しばらく前に録画してあったものをGW中の時間があるときに見た。

きょうされん」も放送に協力し藤井さんが出演されドイツで取材撮影が行われていた。

ETV特集▽それはホロコーストのリハーサルだった

↑こちらが番組ページ

当時告発したのがキリスト教の司教であり、彼が「我々が老いて役に立たなくなったときに同じような目に遭うだろう、それで良いのか」という事を演説(説教)しそれが信者や教会、一般市民に広がり”T4作戦”は中止された・・・しかし実際は影で続いていた。

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藤井さん。

彼も視力障害者なのに、よくドイツへ行ってそれこそ見に行ったわけで、そのバイタリティはさすがというしかない。

社会ダーウィニズム→優生思想→断種法→安楽死許可、、、この後にユダヤ人のホロコーストが行われ、その虐殺が行われるように”T4作戦”に参加した医師や看護師、運転手等々と言った関係者がそのノウハウを伝えた。

自分も仕事をしていて、ふと「この人いい加減にしてよ」とか「なんでこうなったんだろう」とか「もう疲れる」、、とネガティブな考えにとらわれる。疲労しているときに多い。誰でもそうだろう、現場で働くとよくわかる感覚だ。

昔、障害者に給料を支払っても本人達に使うための気持ちや力が無ければ、保護者や家族に本人の「給料」を渡してる事と同じでは無いかと、上の人に言った事があるがその時に帰って来た言葉は「結局一緒でしょう」だった。

当時の施設としてはそんなに安くは無い(一般から見ればはるかに安い)額だったし、何より自分たちが頑張っている根拠を何処に求めれば良いのか。そんな気持ちだったと思うし、そこまで頑張る根拠は何?、と聞いていたんだろう。自分もごまかさず時間を掛けて話し合わなければいけなかった。

どうして障害者の問題に関わるのかという自問自答が疲れてくるとごく自然に湧き上がってくる。元気なときにも上がってくるのだが、、、学生時代にはよく本を読んだり障害者運動とその考えの是非を議論する際にそういうことを考えた事を思い出す。

この点はもっと色々考えて整理し述べたい部分なので以上までに今日はする。

しかし、、

日本の今の「格差社会」が社会保障の削減をし、結果社会的弱者への差別を強め、虐待事件助長する非常に「弱い」社会である事は確かだ。期せずして現首相は復古主義者で「日本を取戻す」といい、副総理に至っては「ナチスの手法に学ぶ」云々などと言っている。この番組を見たら軽々しく言ってはいけない発言だ。「新自由主義者」「ネオコン」達が言う、「民間活力」「官から民へ」「規制改革」これらはみんな虐待、差別や社会問題、事件という暗い部分が伴う同じ事の裏と表の言葉だ。「ケアマネージメント」なんて言葉も大嫌いだ(試験では出るので学んだが(^^;))。

この番組を見ていると、自らの人間観が問われると同時に、自らの「社会観」も厳しく問われる、だから見ていると安倍首相や自民党・公明党が自然にダブってきてしまう。本人さん達はこの文章を読んでいないだろうしそんな暇もないだろうが自分の感覚として自然にそう思える。近頃は無理して合わせようとしなくても自然にダブってしまう。昔は随分無理してダブらせていたものだが、怖い世の中になったものだ。

長女の受験

早いものだ。

来週は私立の受験、3月は公立高校の。

なんだか実感がわかない。

その最中はそんなものか?

子どもは着実に成長し、大人は着実に老いていく。

近況

最近はまっているもの

iPad mini4 wifi+cellular版を購入(先月)

Apple Music 約900円で聞き放題♪

Apple TV 第4世代が発売。まだアプリが少なくてこれからだけれど、Apple Musicが聞けるので、テレビにつないでミュージックbox化ほとんどUSENを自宅に引いた感じ。クラシック・ジャズ・アメリカン・ロック・J-Pop(Sonyのものが現在大分増えてます)とiTUNE STOREにあるものはだいぶそろってます。割とマイナーなものもあり、洋楽中心の自分にはこれで十分。60年代末~現在まで。最近拓郎も少しずつ出てきてうれしいですね。あとはユーミンや中島みゆきも御願いします(^^;)

本はこちら206145マルクスの伝記です。

佐藤優氏推薦!歴史家による評伝の決定版
従来の「マルクス伝」の多くは、称賛にせよ批判にせよ、マル クスをあたかも預言者のごとく描いてきた。これに対して本書は、マルクスの大きな歴史的影響力にもかかわらず、19世紀ヨーロッパ社会に生きた一個人とし て、当時の状況に強く規定されていたとし、その歴史的文脈で再検討する必要性を強調する。本書は、客観性と公平性を持った、「歴史家による評伝の決定版」 であり、我々の現今の状況に光を当てる一助ともなるだろう。
本書はマルクスの思想や政治活動はもちろん、その私生活も網羅して、3つの要素を連 関させながら、全体像を描いている。思想的・政治的に公正な視点を貫き、過度に美化したり、否定することがなく、共産主義体制崩壊から20年以上を経た現 在、マルクスを「神話」から解放し、ひいては今日の基礎を築いた「19世紀」という時代を見つめ直すためにも格好の書と言える。また、思想家や活動家、政 治家や芸術家など、重要人物による「群像劇」としても興味深く読める。
著者は米・ミズーリ大学の歴史学部教授。専門は近現代ドイツの政治史・宗教史・社会史。

 

「マルクスを我々の時代の文脈のなかではなく彼の時代の文脈のなかで見ることが、我々の現今の状況に光を当てる一助となるのであり、それこそが二十一世紀の最初の数十年に書かれるマルクス伝の大きな知的利点の一つなのである。」(「序論」より)

 

[原題]KARL MARX: A NINETEENTH-CENTURY LIFE

ぼくなんかは昔東ドイツで作られたものや、「プロメテウス」。あとは「モールと将軍」なんかの編集ものを断片的に読んでますが何分訳が古い。この本はピューリッツァー賞の最終候補まで残ったと言うことで、最新の本です。8月に千種正文館で買ったものですが、小説としてもあまり偏らず事実に即しての記述が面白い。

マルクスは父親の死後遺産相続で母親ともめたり、当時の「青年ヘーゲル派」のメンバーとの交友関係、必ずしも最初は「共産主義」に好意的ではなくむしろ自由貿易主義者で「ヘーゲル法哲学批判序説」もそういう視点で書いている。ベルリン大学に在籍したけれど卒論(博士論文)はケルン大学に提出しなければ学位が取れなかった。

またベルリン大学の学費のため母親に借金し、父親の遺産の前借りをして後の遺産相続ではほとんど分け前が無かった。当時の複雑なドイツの歴史の中での評伝「19世紀当時ヨーロッパのマルクスを見る」的な方針なのだそうですが、始めは「現代から見てじゃないのかよ~」、でしたが読んで見て分かりました、生き生きとしてますね。

自分たち現代人は19世紀を知らない、あるいは知った気になっている。だから当時の時代の文脈で知ることがかえって大切で、それこそが21世紀初頭にまず書かれるべきマルクスだ、と著者は述べています。

そしてそれが「21世紀のマルクス」について繋がっていくと。