哲学

「小論理学」、1部有論を読了。

ヘーゲル「小論理学」の第一部有論を読み終わる。

「質」論:有→定有→向自有

そして「量」論:純量→定量→度

最後に「限度」・・・→本質論へ

最初に「質」からくるとは思わなかった(^^;)

量から質への転化と言うから「量」から来るかと思ったら「質」があってそのもの固有の質の特徴を抽象したものが「量」なのね、、量の方が抽象度が高いのだな。

「量」の論理の展開はさすがだ。量から質への転化と言うのは「限度」という尺度との関係で考えるという。

「一見なんでもなく見える量の変化は、質的なものを捕らえるいわば狡知である」

目立たず着実に進行する量的な変化こそが、質的な変化を準備しその不可欠の条件である。と言うことが表現されている。

どこまでも抽象的だ、頭の中が整理されて引き出しにかたづけられていく。

嘘ばっかり!→Vol.1 大切なのは「人」。心が動くマネジメント – ベンチャー・起業家支援サイト

少しは「批判」してもいいだろう。

他人の経営を邪魔する意図はない、どうぞ勝手におやりください。そんなことがいいたくてブログにしてなんかいない。

人間の自由について考えているんです。だからジャンルは「哲学」です世の中でどう「成功」するかなんて2の次です。こんな事をいちいち断らないといけない世の中はすでに間違っていると思うこの頃。

↓こんなものを真に受けてはいけない。

「承認論」はヘーゲルのオリジナルではなかったというお話―『承認と自由』(1)

ヘーゲルを引っ張り出してわざわざ承認なんて言ってる人がいるが、だいたいヘーゲルの「承認論」は精神現象学の「主と奴」の項で出てきている項目だよなァ、、

要は社員をどう使い回すか、言い換えると、どう自分の思い通りに動かすか。と言うことで、それで本当に「自由」になれるのだろうか?社長はなれるでしょうが「自由」に。でも社員は心だけ「自由」「幸福」になるだけで○○○がないですよ.

昭和の頃は社長も社員も共に幸せになる道を目指していたんだろう?21世紀、新自由主義が吹き荒れ「格差」が広がり続ける中社長達は食うか食われるかという中にいる。いっしょに「幸福」になれる(なる)なんて幻想はやめた方が賢明だと思うのは言い過ぎだろうか?現実はどうだ?

21世紀にもなる現代の人材育成「技術」はマネジメントと言う言葉でここまで無自覚に人間の自由を奪うと気をつけないといけないなと思う「事例」。

まあ100パーセント悪いとは言いませんがweb上だしね、ほどほどにしとくよ(^_-)–☆

 

アーレントとマルクス 途中経過、、

41XBABBB11L._SL500_AA300_現在ちょうど真ん中あたり。

ハンナ・アーレント、自分も映画にでもならなければ素通りしていたひとであろう。彼女は「政治」の復権を訴えているそしてそこにはマルクスにはない自由な発想がある。

ハーバーマスが彼の著書の中で「ハンナ・アーレントに資本主義は現れない」と書いたそうだ。マルクスと違い20世紀の中頃過ぎまでしかもアメリカで暮らしていたため「大衆消費社会」などマルクスの知り得ないことを多く知っていたがーもちろんスターリンについてもー彼女の見ていたのは資本主義の中で比較的良い餌を与えられている労働者であり、生産関係については全く触れないと本の中で批判されている。

20100724175804アーレントの本も読んでみたい。なんて言うか、自身が所属している組織全体が向かっている方向に対して間違っているときに「No!」と毅然と言う人が彼女のような気がする。これは僕の中でのイメージでしかないけれども。

かなり肯定的な評価としっかりした批判が書かれていて購入して良かった本の一つになりそう。後半最後は「サルトルとアーレントーテロリズム論を媒介に」だそうで、興味は尽きない。

座標軸

P1010241しばらく休んでいる間にずいぶん座標軸が右にずれたものだ。

過日の震災の影響で地殻がやはりずれたんだろうかとでも言いたくなってしまう程。

ヘーゲル「小論理学」は予備概念がも少しで終わりそうなところ。遅々として進まない(^_^;)

P1010245自分の中では「小論理学」を読んで次に「聖家族」を読んで次は「へーゲル法哲学批判序説」を読んでと、プランばかり進んで実態がついて行っていない空虚な思考といったところか。

 

座標軸と書いて関係ないことを書いてしまった、ヘーゲルが尺度について精神現象学で言ってるのを思いだしたんだけれど上手く書けなかった、今年は海に行っていない。

明日(今日)は誕生日だ。

信じられない事が多い・・・パニックだな・・・

う~ん、海水にも放射能、食物連鎖で放射性物質が強くなっていくんだよね、確か。

職場で「正しいパニック」の話しをしたら「それなに??」と強烈に否定された。

言葉の形式としては矛盾しているかもしれないが、要ははっきりと「抗議する」事の重要性を

考えないといけないと言いたかったのだがなー・・・

 

でもいきなりな話しだったようで、上記の「?」君は「原発賛成」とか言っているし。そのくせ

放射線のセシウムやらなんやらの用語には異常に詳しい、、、お前の態度こそ矛盾しているやん (-_-;)

ま、要は自分だけがより安全であればいいという小市民な日本人全体の「今」の意識に乗り遅れまいと

必死なんだろう。そして大方の日本人はみんなそうだ。

 

ただ、感じていることは

日本人にとって漠然としていたことが「現実化」してしまいこの現実を多くの人がどう考えていいかすら分からず

呆然としているのだろう。

考えることは時間がかかり、その過程は大変忍耐も必要なことなのだ、安易に吐き出さず自分の中で「熟成する」、

また、他者の意見も聞く、そういう思考は日本人不得意です、まず自分が。

 

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へーゲルを読む会 第2期 第1回例会

あまり意味のない写真です (^_^;)

先日日曜日はへーゲルな例会でした、もう『自己意識』です。自己意識も他の自己意識があって自己意識になる。

自己意識は真理のふるさと。

類。  ←ここらでようやくマルクスとの接点が (^_^)v

主と奴 (主と僕、主人と奴隷)、このお話しはやはり面白かったですね。

関係しそうな訳文をそのまま書き写すと・・・

ところが主は、物と自分の間に僕を押し込み、そのことによってもっぱら物の非自立性とだけ結びつき、物をひたすら享楽する。が、物の自立性の面は、物に働きかけ加工する僕にまかせてしまう。

これら2つの契機に於いて、主は他方の意識によって承認された有となる。なぜなら、この他方の意識は、・・・・そのため初めの意識が自分に対して行う事を、自分で行うという意味で、承認という契機が現存していることになる。

なんだか骨も身もない引用だが、主人は奴隷なしでは主人ではあり得ないし、奴隷が労働をするから「享楽」できる。ここで主人と奴隷の関係が逆転していくという事だそうだ。

主人と奴隷というのがどういう事を指すのか、資本家と労働者、あるいは家庭における夫と妻、支配するものとされるものとの関係に置き換えてみると、、、

身近で家庭などは、家事労働の問題とか、DVやら家庭内の暴力や女性差別云々といくらでも出てくる問題だ。

つよいものはよわいものを力や権威や恐怖にて支配する、奴隷が主人を「承認」するとへーゲルは言っている。ただ、一面的で不平等な承認が生じた、と言う。

「自立的意識の真理は僕としての意識である」。う~ん、書いていて思うがやはりへーゲルは積み上げていかないと理解が出来ない。時間の流れ(歴史)が基本にあるから後から振り返ると、ああそうだったんだ、と分かるんだが。

自己意識についてへーゲルの規定は本当にむずかしく、先生もそう言ってみえた。すこしはしょりすぎ、簡潔にまとめようとし過ぎているとのこと。しかし、自分という意識は、例えば話している自分と、その話している自分を見ている自分という2つの自分があるのだそうだ。哲学者は本当にむずかしく考えるとおもう。こういうことを聞くとつい自分は、一人の人間がパラノイアしているのかと思ってしまうが、一人の人間の二つの側面だそうだ。

本音と建て前。裏と表。確かにそう言うから二面性というのはあるよな、、、(^_^;)

自分の思いも、人類みんなのつまり「我々」の思い。私が辛い思いをしている「辛い」というのも個人的な感情だが人間誰でも持つ感情だ、妙に達観してしまったが。

類的な存在とか。ここに来るまでに自我の問題とかあったな、自我を実体化する問題などすっ飛ばしたな・・・

言いたい事がまとまる前に書き始めると意味がない、ナンセンスなだけだ、まとめる努力をしよ (+_+)

へーゲル「精神現象学」、経過報告 1年が経ちます ♪

相変わらずむずかしい。来月の日曜日には「へーゲルを読む会」の新年度が始まる。新年度だが、すでに『自己意識』にはいっているのだ。

本論の構成は、

☆A 意識

一 感覚的確信 このものと思い込み

二 知覚 物とまどわし

三 力と悟性 現象と超感覚的世界

☆B 自己意識

四 自己自身の確信の真理  (今回はここなので少し細かい目次を・・・)

1.自己意識自体

2.生命

3.自我と欲望

A 自己意識の自立性と非自立性

1 二重の自己意識

2 対立する自己意識の争い

3 主と僕

α 主

β 恐れ

γ 形成

今回はここまで、次回は

四 自己意識の確信の真理 の B 自己意識の自由 ストア主義と懐疑論と不幸な意識 、です。ここからは8月例会です。

(樫山欽四郎さんの訳本を使用している)

上記のB 自己意識の自由 ストア主義と~ が終わると 大見出し ☆C の 理性 に入っていきます。高い山はなかなか頂上の姿を見せません。

今回の「自己意識」ではそれまでの単純な対象から二重の対象性について触れています(触れているようです)。

「自己意識は真理のふるさとである」そういう言葉が始めのところで出てきました。意味は分かっていませんが意味深な言葉ですよね。

この「精神現象学」というのは『意識の経験の学』という副題がついているように『経験』を通じて、人間の「意識」の高まり・深まりの成長段階を、段階的にヘーゲルと一緒に階段を上っていく。そんなところが大きな特徴のようです(解説本にはそう書いてありますw)

現在の理解力では、とりあえずヘーゲルさんについていって何処に連れて行ってくれるのか。そんな確認の旅をしていると、格好良く言うとそうなりますか・・・

ただ、上記の『主と僕』のところは有名な節らしく(読んでも分からないが (/_;) ) 期待はしている。

精神現象学 序文 終了


昨日の「ヘーゲルを読む会」にて精神現象学の序文を一応読み終わる。
しかし、もうここのあたりまで来ると内容について行けない。

原因として予備知識の不足を多々感じた。その一番は「論理学」に関する部分。”内包と外延”など、こりゃ一度しっかり向き合わないといけないと再認識。

仲本章夫さんの「論理学入門」あたりを読みたいが、誰か一緒にやらないかなー (^^;)