2010年 10月 の投稿一覧

明日は、、

通信のスクーリングなんだが ・・・
お呼びでない台風くんのため警報とにらめっこなのだ。
とりあえず出発の用意だけして。

コーヒー飲んで、PCやって、音楽聞いて、、、寝よ。
(↑やったらいかんものが多い)

秋深し ・・・ 2

今日も通信ネタ。
相談援助演習の課題提出が11月3日。おまけにその科目終了が11月4日までに前者は500字が3つ、後者は1000字。

この字数ってやつも数えるのめんどくさくて、、、
何か方法あるのだろうけど、テキストエディタで原稿用紙モードにして字数数えてます。
Wordで字数表示ってどうやるんだっけ?ていうか調べる気力もない (^_^;)

11がつ~~、慌てなくてゆっくり来ていいぞー (-_-;)

秋深し ・・・

そろそろ通信教育の秋期試験が見えてきた、あくまでも見えてきただけだが。

今まで放って於いたテキスト科目に手をつけていないのが痛い、ということに今頃だが気づいた。

今は高齢者・・の最後の小テストを終え残りの講義が流れている。早く寝たいよー (@_@)

The Orb featuring David Gilmour Metallic Spheres

元Pink Floydの David Gilmour が The Orbというバンドのアルバムにさんかしています。
これは、1部の楽曲が聴けます。

元Pink Floydの David Gilmour が The Orbというバンドのアルバムにさんかしています。これは、1部の楽曲が聴けます。

The Orbというと個人的にはSystem7に名前があったナーぐらいですが、一部のトランスなどのファンの中では結構話題なアルバムのようです。

そのメイキングなビデオ↓ 彼の冷たいギターの音が大好きです♪

夜中になんかの画像のスライドショーでもしながらこういう曲を聴くといいかも。

しかしギルモアさんもだいぶやつれたようですが、LIve8のころはも少しほっぺたがふっくらと ・・・

元気で長く活動して欲しいものです。

しかし最近のYoutubeの映像は画質がよくなりましたねー。

下の投稿とはまったく異なるジャンルのお話しでした (^_^;)

一人1曲ライブ終了 

今年最後?の出番が終わりました。よいパートナーに感謝しています。

10分ほどあります、長いです。前半語りなので、長ければ途中から見るか2分割案も有りでしょうか。

まともな「障害個性論」の批判

tumblrをやっていて流れてきたのをみつけたのだが、言いたかったことをだいぶ言って頂いてます。こういう文を見ると情報の共有も悪くないと自己満足ですが思います。
以下、引用です。

障害は個性」という主張に感じた強い違和感について、ぼくがそういう見方をするに至った根拠を思い出したので、丸々引用しておこうと思う。この本から。

Amazon.co.jp: 怒りの川田さん―全盲だから見えた日本のリアル: 川田 隆一: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/486053056X/arkweb-22/ref=nosim

その箇所はちょっと、というかすごい長いけど引用しておく(本当はもっと長い)。

1 障害は個性なんかじゃない!

●妻の遺影

人が互いの悲しみを分かち合うのは、喜びを分かち合うよりも、ずっと難しいことのように思います。けれど、僕の盲学校の先輩が味わった悲しみには、同じ障害を背負わされたものとして、察するに余りあるものがありました。

点訳ボランティアだった女子学生と結婚した、目の見えない先輩がいました。盲学校から一般の大学に進学した先輩の教科書を点訳してくれたのが彼女 で。それが縁となりました。結婚して18年、2人の子供にも恵まれ幸せに暮らしていたのに、ある日、彼女がガンという病魔に冒されていることが分かったの です。

その日は朝から冷たい雨が降っていました。突然の別れでした。まだ高校生と中学生の2人のお嬢さんと、そして先輩を残して、彼女はあっけなく逝ってしまったのでした。
葬儀で挨拶に立った先輩は、
『私には、妻の遺影を選ぶことができませんでした。娘に母親の遺影を選んでもらわなければならないなんて…』
搾り出すような声でそう言って。号泣しました。目が見えない先輩には、目が見えるお嬢さんに頼んで写真を選んでもらうしかなかったのです。
僕には葬儀の経験が少なく、遺影のことなど考えたこともありませんでしたが、話を聞いてはっとさせられました。先輩の気持ちが痛いほどわかりました。ただ でさえ妻を亡くした悲しみに暮れているのに、そんな時にも自らの障害と向き合うことを余儀なくされてしまうのです。どんなに悲しかったことでしょう。口惜 しかったことでしょう。
この悲しさ、悔しさ、辛さこそが、障害というものの本質なのではないでしょうか。

●障害は個性なんかじゃない!

誰が言い出したのか、この世の中には『障害個性論』なる価値観が吹聴されています。曰く、『障害は個性だ。不便だけれど、不幸ではない』。そして、 『目は見えなくても、心の目がある』。幼い頃に盲学校の教師や両親からしつこく聞かされたこの言葉も、『障害個性論』と同じで、僕には慰めにしか聞こえま せんでした。
確かに、目が見えようが見えまいが、心の目は誰もが持っていると思います。けれども、それはあくまで、人の心だけ見える─優しい心、きれいな心も見えるけど、傲慢で醜い心や差別、世の中のちっぽけな価値観もよく見える─心の目なのです。
『障害個性論』は障害者の強がりであり、社会が障害者への責任を回避するための体の良いすり替えだと思います。『心の目』だって、しょせん気休めです。僕 にとって目が見えないということは、個性にしてはあまりに重たすぎます。そして『不便』と呼べるほど軽いものではないのです。

最愛の人の遺影を選んであげられないことは、やはり『不幸』です。交通信号が見えないとか、駅のタッチセンサー式の自動販売機で定期券を買えない程 度のことなら、『不便』の範疇かもしれません。しかし、その駅のホームから誤って落ちて電車にひき殺されることまで『不便』で済まされるでしょうか。それ は『不幸』以外の何物でもありません。ましてや『個性』などであろうはずもありません。

障害者が自らの境遇をどのように捉えて生きていくか、それは人それぞれの自由です。障害を個性と捉えるのも、不幸と感じるのも、その人が前向きで一 番安らかな心持ちでいられるように考えれば良いと思うのです。しかしたとえ障害者であっても、自己の強がりや価値観を他の障害者にまで押し付けるのはやめ てほしいと思います。

何事にも多様性を認めないこの国の悪い癖なのか、『障害個性論』が出てきてからは、全ての障害者がそれを受け入れなければならないかのごとき圧力を感じるのは、決して僕一人ではないはずです。
許せないのは、福祉施設の職員やボランティア、評論家もどきなど健常者が『障害個性論』をぶち上げていることです。しかし、そのわりには、障害個性論を信 奉する健常者が、自ら障害という『個性』を選択し、見える両目をどぶに棄てて心の目に取り替えたという話は、未だかつて聞いたことがありません。それどこ ろか、日ごろから障害者を相手にえらそうに生き方を説いていた福祉施設の職員が、いざ自分や家族が障害者になったら、とたんにあたふたしてしまったという 話はよく耳にします。結局のところ、この種の健常者は、自分は安全な場所にいて、さほど考えもせずに障害個性論をお題目のように唱えているだけなのです。

」(248~251ページ)

あー長かった。
でも、改めてこの件を咀嚼してみるにはこれぐらいの引用が必要だと感じた。

(こんなに沢山引用しちゃってすみません、作者の川田さん。知り合いでもなんでもありませんが)

改めてこの一節を読み、ぼくが思ったことを書いておく。

少なくとも「障害は個性だ」と言われたら気分を害する障害者がいることがわかったとき、ぼくら健常者が熟慮なしにそういう論調に乗るべきじゃない。彼らの苦衷を想像してみる努力もせずに、個性なんだから受け入れなさい、なんて到底言えないはずだ。

(健常者の親が障害者の我が子に対して障害個性論を教えるかどうかについても、時期や伝え方などについて、十分に考えた上でなければいけないものだと思う)

障害を「個性」と言い換えるなら、言い換えるメリットがデメリットを上回っていると確信が持てる社会になってからにすべきだろう。そのためには、ぼくら健常者がまず、たとえば障害者が日々感じる不便について、もっと知ろう、改善しようと努めるべき。

あぁ青臭い。道徳の教科書みたいになってしまった。
でもこの通りに思ってるので、オープンにしておく。

意見、指摘などあればお気軽にどうぞ。

長くてすいませんでした、最後まで読んで頂いてありがとう。

引用元はこちらです

ふとっちょおばさん、「障害は個性」って本当なのかな?

John Lennonで好きな歌はというと、

オー・ヨーコ です♪

少し恥ずかしい話になるが ・・・

その昔、高校の陸上部の後輩に「ようこ」チャンという子がいて、、、う~ん知ってる奴読まないよなー (^_^;)

実はその後輩を自分好きだったようで、しかし後輩ちゃんは同じ部の他の同級生とつきあい始めて、、、この歌を聞いてなんか泣いていたような記憶がある。

しかしイマジン以降のアルバムのあのくどい編曲は何とかならんものかなと今でも思うぞ。

追記;なんか、へんな映像も、変というか恥ずかしいというか。

↓これ、一応ミュージックビデオなんだそうだが、確かにそうなんだが、終わりの互いに名前を呼び合うシーンとか、見ていて恥ずかしいし (^_^;)

↓これはそれほど恥ずかしくないけど、でもこんなプライベートまでのせちゃっていいの?っていう映像。まあ、あの二人には自分たち二人だけが世界だったんだとあらためて思うけど 、、、

ジジェクより

実際コミュニズムが「永遠の」思想であるならば、それはヘーゲル哲学における〈具体的普遍性〉として機能する。どこにでもあてはまる抽象的で普遍的な特質というのではなく、新しい歴史状況がめぐりくるごとにモデルチェンジされるべきだという意味で、永遠なのである。

最近読み出したいくつかの

本。

失われた時を求めて プルースト

ポストモダンの共産主義 スラヴォイ ジジェク

雑誌 経済 9月号 福祉現場のワーキングプア

ジジェクの本は本当に面白い。
ポストモダン社会、リスク社会、情報化社会、脱工業化社会、等、次から次へと新語をひねり出す人ほど、本当に新しい事の輪郭を見逃してしまいがちである。
真の新しさを捉える唯一の方法は、古きものの「永遠の」レンズをとうして世界を見る事なのだ。
以上、本の帯より引用。

プルーストは新訳が出始めた、しかしこの本のストーリーを、内容を知って買う人、みんな果たしてそういう人なんだろうか?
フランス文学の多様性と言うと格好がつくかもしれないが、なんと言っても同性愛小説だもんな~。
日本人は異質さを嫌うから。それだけがテーマではないけど。

福祉現場のワーキングプアについては、詳しく書きたいがまた。
ただ、以下の引用だけ、
…私は、福祉の職場は現場の労働者の「善意」に過度に依存しているとかんじている。その過度の依存が、福祉労働者の著しい低処遇につながっているのではないかと思えて仕方がないのである。それは、行政、事業主、そして国民の「甘え」というほかない。
59ページ。